東日本大震災のボランティア活動に参加して

2011.05.25 | おしらせ

  この度、平成23年3月11日に発生しました東日本大震災により被災されました皆様には、謹んでお見舞い申し上げますと共に、被災地の一日も早い復旧・復興を心よりお祈り申し上げます。

 多くの方々が被災地でのボランティア活動に参加されている中で、当院からも医師が1名、災害医療活動に参加しました。

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東日本大震災のボランティア活動に参加して             尾立 朋子

 H23年3月11日に起きた東日本大震災は実際に被害を受けなかった関西にいる私たちにとっても非常に大きな心の傷を残したと感じます。震災後約二ヶ月経ち、ニュースで被災地の状況が報道される時間も少しずつ少なくなってきました。それでも、今もなお水も出ないような環境下で生活している方々がいると思うと、胸が痛くなります。

 私は災害医療活動に参加したのは今回が初めてのことです。なぜボランティアに参加したいとこんなに強く思ったのかはわかりません。ただ、ニュースを見ていると涙がこぼれて、何かしたい、自分に何かちょっとでもできることはないかと、寄附をしたり、節電をしたりとしていましたが、どこか心が満たされず、どうしても現地に行ってボランティアに参加したいと強く思いました。大阪府庁にすぐに電話をし、医療ボランティアチームに参加をすべく登録をしました。しかし、大阪府庁も国からの要請でボランティア登録を募っているだけの状態であり、すぐに現地へ向かう段取りは全くといっていいほどされていないようでした。早期に現地に行きたかったのですが、私の派遣が決定したのは震災から一ヶ月経ってからのことでした。

 4月12日新幹線で東京へ向かいました。マイクロバスに乗り込み8時間くらいかけて宮城県仙台市に到着し無題ました。遠いところでは沖縄や北海道から参加されている方もおられました。私は南三陸にあるベイサイドアリーナへ派遣されることになりました。仙台市内から南三陸町へ近づくごとに現地の凄惨な状況が目に飛びこみ、映画でも観ているかのようで、窓を開けると焼け焦げたような臭いや、何かが腐ったような臭い、それに石油や海の臭いも混じり何とも言えない異臭がしました。

 ベイサイドアリーナ内の24時間体制の仮設診療所にはベッドが6床設置され、驚くほど薬剤も揃っていました。またイスラエル軍の災害活動チームが検査装置を持ち込んでおり、レントゲン撮影や血液検査をすることも可能でした。

疾患としてインフルエンザや感染性胃腸炎などの感染症が主で、高血圧や糖尿病などの慢性疾患に対する処方も多数でした。しかし中には消化管出血や肺炎など、入院加療を必要とする方もいらっしゃいました。不眠の訴えで受診される方もいれば、涙を流しながら悲しみを訴える人もいました。ありがとうと何度もお礼を言ってくださる方もいらっしゃいました。多くの被災者の方々のつらさや悲しみ、痛みや苦しみがひしひしと伝わってきて、自分の無力さをただただ感じるばかりでした。

ベイサイドアリーナには電気も水もなく、仮設トイレも屋外にあり、ビニールシートで区切られただけのボットン式でした。夜無題2は真っ暗で、ヘッドライトの電気だけでトイレに行くのは涙ものでした。水がないため手洗いも出来ずアルコール消毒で対応していました。これでは腸炎が流行しない訳がありません。お風呂にも入れず、歯磨きすらろくにできず、たった数日間の避難所生活でしたが、耐え難いものを感じました。それを被災者の方々はこれから上下水道が回復するまでの間、耐えていかなければならないのかと思うと本当になんとかならないものか、どこにぶつけてよいかわからない憤りさえ感じてしまいました。

 

地元の志津川公立病院で勤務されており、このアリーナ付近の医療に関してとりまとめをされていた西澤先生無題3と管野先生とお話をすることもできました。菅野先生は、米タイム誌の「世界で最も影響力のある100人」に選出された方です。先生方からはボランティアに来てくださることはとても有り難いけど、これからは地元の医師達で頑張っていかなければならない時期にきているとおっしゃっていました。もともと志津川地域は医師の足りない地域であり、ボランティアの方々によって震災前以上に医師が充実しており、これに甘え始めてしまっている。これが当然になってしまうと、ボランティアに来てくれる人が途絶えてしまったとき、ここの医療が成り立たなくなるとおっしゃっていました。ちょうど今はボランティアから保険診療への過渡期であることを実感しました。4月18日からはイスラエル軍が置いていったレントゲン装置etcがある場所で管野先生達が仮設志津川公立病院をオープンされていました。

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 アリーナでの診療以外にも、近隣の自宅等へ訪問診療に行きました。親戚や知人で集まり、小さな避難所のようにして生活されていました。診療というよりも話し相手をすることも多く、被災者の方々から聞いた話は今でも思い出すだけで涙が出ます。こんなに多くの方々が、無差別に大切な家族や友人、自宅を失ってしまったなんて・・・ほんとに悲しい、悔しいです。私はそばに座り、話を聞くだけで精一杯でした。

 無題5

 

 

 

  この志津川地域でも救急車で10分も走れば普通に生活をしています。仙台市まで出れば賑やかな町並みでした。東京に戻り、大阪に着けば、水も電気も何不自由ない生活で、地震の傷跡ひとつ感じませんでした。その温度差に今も戸惑っています。

 今回の活動は、私にとってかけがえのない財産になったと思います。

 素敵なメンバーにも巡り合えました。またこのメンバーで一年後に南三陸に集合して、復興祝いをしたいと心から思いました。

 最後に、この医療ボランティアへの参加に快く了承していただいた千里リハビリテーション病院の皆様方に深く感謝いたします。ありがとうございました。

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